仏教の瞑想

仏教の瞑想

瞑想という観点から仏教に関係する教えや経典などを取り上げて、抜粋したものを書き出してみます。

正念と正定

正念とは、正しい集中を伴う観察であり、釈尊が示した観想法として四念処があります。@観身不浄=自らの肉体が汚れていると観察すること。 A観受是苦=五蘊の受が苦しみであると観ずること。B観心無常=心が常に変化していると観ずること。念念生滅。生住異滅。 C観法無我=すべてを成り立たせている法は無我であると観ずること。また、唯識の末那識がどのようなものかを観察すること。と思います。

正定とは、正しい三昧を得ることで、四禅が考えられます。四禅=初禅と二禅と三禅と四禅。  初禅は、欲界を離れ、言語の活動意識から離れることで、尋と伺が残っている状態です。 二禅=尋と伺が休止し、心が十分に安定している状態。覚観寂滅。と思います。三禅以降のことは、分かりません。


尋=古い訳では「覚」といい、五感への飛びつきの意識ではないかと思う。伺=古い訳では「観」といい、思量する状態であると思う。 末那識=唯識が説く潜在意識。常に活動し続け深く強く自己執着作用を起し思量し続ける心。阿頼耶識と六識をつなぐ人間の執着心。

坐禅儀

精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身のために独り解脱を求めざるべきのみ。

坐禅せんと欲する時、閑静(げんじょう)処に於いて厚く坐物(ざもつ)を敷き、ゆるく衣帯(えたい)をかけ、 威儀をして斉整ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。

先ず右の足を以て左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは半跏趺坐も亦た可なり。

次に右の手を以て左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面を以て相ささえ、徐徐として身を拳(おこ)し、 前後左右、反復揺振(ようしん)し、すなわち身を正しうして端坐せよ。

さきの法雲の円通禅師も亦た、人の目を閉じて坐禅するを訶して、以て黒山の鬼窟(きくつ)と謂(い)えり。

ひそかにおもうに、坐禅は乃(いま)し安楽の法門なり。しかも人多く疾を致すは蓋(けだ)し用心を善くせざるが故なり。


結跏趺坐=坐禅の正式なすわり方。鬼窟=鬼が暗い洞窟の中に住んでいること。訶して=「かして」と読み、叱って。

雑阿含経

常に、当に方便して、禅思を修習し、内にその心を寂にすべし。所以は何かん、比丘、 常に当に方便して禅思し、内にその心を寂にせば、実の如く観察すればなり。分別経より。

当に、色は無常なりと観るべし。是の如く観るものは則ち正観すとす。 正観するものは則ち、厭離を生ず、厭離するものは喜貪尽く。喜貪尽くるものを心解脱すと説く。 無常経より

安那般那の念を修習せよ。もし比丘の安那般那の念を修習するに多く修習せば、身心止息することを得て 有覚、有観、寂滅し、純一にして明分なる想を修習満足す。安那般那念経より


禅思=静かに思うこと。多分、凝念と静慮のことだと思われます。 喜貪=人間が持っている無意識的なむさぼりとよろこび。 色=眼、耳、鼻、舌、身、意の六つから成る身体全体の機能。 安那般那の念=吐く息と吸う息に意識を集中する念法。入出息念。数息観だと思われる。

法句経

1番
物事は心に基づき、心をある主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、 苦しみは、その人につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。

36番
心は、きわめて見難く、きわめて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守るべきである。 心を守ったならば、安楽をもたらす。

282番
実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生ずる。心が統一されないならば、豊かな智慧がほろびる。 生ずることと、ほろびることとの、この二種の道を知って、豊かな智慧が生ずるように自己をととのえよ。


守る=常に気をつけている。心が統一される=ヨーガによる精神集中。ヨーガの行法は仏教以前からあったらしい。

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